ヒロコクッキングスクール 西山寛子先生の孤軍奮闘!

「あんた二年もったら偉いわ。私が料理学校を開く、いうたら皆んなにそう言われましてん」開口一番、明るく笑い、こんな想い出を語る西山寛子先生である。
  子供の頃から料理が好きで好きでたまらない。神戸海星女子高等学校を卒業と同時に憧れの辻学園・日本調理師専門学校に入学、「料理教師コース」を専攻した。元気印の娘「寛ちゃん」と先生方に可愛がられ、就職した。辻学園技術指導部配属3年、辻クッキング(名古屋校・阪急校)で6年半と9年余もの間、諸先生の薫陶を受けた。が、結婚で実家を継ぐことになる。福知山の名家、西山本家の跡取り娘だったのである。

 料理好きは結婚しても止むことはない。すぐに「ヒロコクッキングスクール」を開設して22年となる。こう書けば順風満帆の料理好き人生の一人となるが、西山先生の奮闘は並大抵のものではない。

母はアルツハイマー・長男は登校拒否・長女が生まれて6年も経った頃、実母が妙な仕草をやりだした。調べるとアルツハイマー病に罹っていた。その忙しい看病と子育て、教室運営の中で、辛いいろんな事情で使用人も去る。処分したとはいえ二反の田、畑地、栗山、松茸山も残された。クッキングスクールはどうしても続けたい。これから西山寛子の孤軍奮闘の歴史が始まる。


 夜明けと共に水田の世話に出る。帰途には畑の野菜も育てる。家にとって返して母の食事と介護。続いて家族の食事と弁当作りでそれぞれを送り出す。自分の食事もそこそこに「ヒロコクッキングスクール」に出勤。この職場で生徒さんと過ごすときが一番くつろげる時間だった、と述懐する。
  長女はすこやかに育ったが、長男が中学入学と同時に登校拒否で自宅にこもりがちとなる。子供の不幸、病は特に母親の身にはこたえるものだ。病気の母と子を残してクッキングスクールでもあるまい、とも思ったが、料理教室と同時にここは「デリカテッセン」の製作工場なのである。近くのスーパーと契約をして自然野菜の、防腐剤、保存料などの入っていない「お惣菜つぐり」が貴重な現金収入の因なのだ。地域の人々への幸せにも繋がる。開校以来20年も続けて共に育ち、勉強する人々の励まし、一般二百余名の生徒さんの協力が勇気と力を与えてくれるのだ。

                自然が、母が、子が 私を生かしてくれる

 「田んぼは手入れせなんだら日照りで穴があくのよ。そこから水が洩れてしまっては水田にならんのよ。人も同じやけど。栗山も松茸山も手入れが行き届かんからだんだん獲れんようになってきてねェ。都会の人々には解らんでしょうが、今は猪、鹿、カラスなど獣との闘いもあるんです。網を張ったり、ふすべ(獣被害を防ぐために古靴などを燃やすこと)をしたり。

けど、料理作りと教えることで心が救われ、人生の楽しみを得ています」と、西山先生は明るい。
  授業とデリカ製作を基本に、家事は繁雑を極める。食事、風呂、病院、息子の先生との語らいと休む間もない忙しさである。
  「この忙しさの中で、独りで何もかも背負って凄いですね」と問えば、「人生いろいろ! なんでも経験と思えば喜びがありますよ」と、くったくがない。

  「水田も畑も、山の樹々も必要最低限度のお世話しかしない。それがまた無農薬の野菜作りの原点になったりして、私は田や畑からも教えられ、励まされてもいるのです。病気などになっている閑がないし、自然の中で元気に生きているだけで不幸と思ったことがないから、ほんと! もっと仕事がほしいくらいですわ」などという。

  福知山の地で奮闘する西山寛子先生! 頑張れ! と思わずエールを送りたくなるインタビューになった。
(文・水嶋洋二)

平成14年10月31日発行 西日本料理学校協会会報 新シリーズ第一刊目に載せて頂きました。

三年後の只今は息子はがんばって高校に!
母は施設で今も元気、娘は大学生で広島に。
私は獣との戦いに負けて畑作りをやめ米作りだけがんばっていますのでかなり楽になっております。